日伊文化交流協会IROHA芸術会員の紹介
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着物

 

着物(和服)の歴史

平安時代以前の着物については、はっきりしたことはわかっていない。いにしえ大和朝廷の時代には男子は上衣にズボンのようなものを、女子は上衣にスカート形式のものを、それぞれ組み合わせて身につけていたようである。その後奈良時代に発令された養老律令には衣服令が含まれる。それによると、朝廷で行われる儀式や位階によって、衣服の形や色が細かく定められていたことがわかる。また、文官と武官でもその形態に違いがあった。また奈良時代は中国との交流が盛んな時期であり、宗教や芸術と同様衣服も中国様式の影響を、強く受けたものであった。
一方平安時代も中期になると、遣唐使が廃止され国風文化と呼ばれる日本独特の文化が花開く。衣服も日本風のものが考案され、平安装束と呼ばれる皇族、貴族の着物が普及した。文様や染色技術の発展により色彩も多様化し、また中国様式に比べ大振りになった。平安装束の代表的なものは男子が束帯、女子が十二単である。特に十二単は、五つ衣と呼ばれる重ね着の色あわせに趣向が凝らされた。束帯、十二単とも現在も皇族の公式行事や、歴史ある祭りなどで着用される。

昭和天皇と皇后の即位式(1926年):天皇は束帯を、皇后は十二単を着ている。

鎌倉、室町時代には武士階級が台頭し、他方朝廷や貴族階級は次第に没落していった。室町末期の応仁の乱、それに続く戦国の世における下克上などを反映して服装も簡略化の一途をたどった。庶民の服装であった水干をもとに直垂ができ、武士の正装となった。女子の衣服も裳や袴は徐々に姿を消し、重ね着の下に隠れていた小袖が主役になっていった。また小袖の上にをもう一枚小袖を引っ掛ける打ち掛けができた。
江戸時代になると一層簡略化され、肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)とを組み合わせた裃(かみしも)が用いられた。一方庶民の文化として小袖が大流行した。歌舞伎などの芝居が流行し、錦絵や浮世絵で役者の服飾が紹介されると、庶民の装いは更に絢爛豪華なものとなった。これに対して幕府は、儒教的価値観から倹約令にて度々規制しようとしたが、庶民の服飾への情熱は収まらず、茶の湯の影響もあって、見た目は地味だが実は金のかかっているものを好むようになった。帯結びや組紐も、発達した。江戸時代後期の天明の大飢饉をきっかけに、1785年幕府は庶民が絹製品を着用することを禁止したため、木綿製品もしくは麻などの衣服が着用された。女子服飾は長い袂(たもと)の流行から婚礼衣装の振袖ができた。 明治時代になると、政府の産業育成の動きも手伝って、近代的な絹の紡績工場が建設され、絹の生産量が一層高まった。日本は開国によって始まった海外貿易で絹糸(生糸)と絹製品の輸出額は全輸出額のうち大きな割合をしめ、世界的に日本は絹の生産地とみなされるようになった。絹糸の大量生産にともなって、絹は他の商品と比べてそれほど高価ではなくなり、絹織物も、縮緬・綸子・御召・銘仙など種類が増えた。一方女性の和服に様々な種類の生地も用いられるようになった。出来上がった生地は染色技術の発達により二次加工され、いままでにない文様が可能になった。絹の小紋染めの流行は、江戸時代から引き続き、伝統的な晴着として大いに人気を集めたが、あらかじめ先染めの糸で文様を織り出した縞や絣も好まれた。

振り袖(背面)

西洋文化の流入により、洋服も上流階級や軍隊等を中心に広まっていったが、庶民の生活ではまだ和服が主流であった。 昭和に入り、国内では服装の西洋化が一段と進み、国外ではナイロンの発明により日本の絹輸出量は減少の一途をたどる。第二次世界大戦が始まって間もなく、日本政府は男性用の制服として、国民服を定義したが、これも和服ではなかった。国民服の着用は義務ではなかったが、戦局が悪化し本土決戦の気運が高まるにつれ、国民服を着用する男性が増えていった。一方女性も、日本本土の空襲が増え、日常生活が逼迫してくると着物でおしゃれする余裕はなくなり、また着物自体が贅沢品として除外視された風潮も手伝って、もんぺの着用が広まっていった。
戦後は、実用的な洋服が和服を圧倒していったが、ウールの着物が考案されと、色彩が美しく、カジュアルで気軽に着られる普段着の和服として日本全国で流行した。現在、伝統的な着物生地や織物、染色業者の高齢化や廃業が相次ぎ、また中国からの安価な生地の流入、さらに価値観の変化により着物業界は長年にわたって苦戦を強いられている。そんな中でも、浴衣を着物への関心の第一歩としてキャンペーンを行ったり、卸ルートを簡略化させた直売形式やさらにはインターネットショップなど、日本の伝統衣装を守るための試みが今も続けられている。

着物の種類

未婚女性の第一礼装は振り袖である。もともと子供用の小袖が発展し、江戸中期から後期現在のような振りの長い形に発展した。着物全体に模様を配した総模様が一般的である。一方既婚女性は黒留袖。こちらは明治時代に定着した。上半身は黒に紋だけでありながら、裾模様に金糸銀糸を含むあでやかな刺繍模様が特徴である。既婚未婚の別なく、幅広い場面で着用されるのが訪問着である。裾だけでなく肩や袖にも模様を染めた、振り袖に次ぐ華やかな着物である。気の張らない外出着の代表的なものが小紋。江戸小紋のような一見無地のように見える極細の文様から、友禅や紅型など色鮮やかな文様まで様々である。糸を染めてから織り上げる先染めの着物には紬や絣などがある。各地域ごとに特徴ある文様があり、紬だけでも結城紬のような重要無形文化財に指定されているものから、大島紬のような泥染の渋い色合いが特徴のもの、黄や赤の縞や格子の黄八丈、さらに郡上、久米島、塩沢、十日町など多くの種類がある。その他夏の着物に独特な生地として絽や紗などがあり、織り目が詰まっていないため単衣仕立てにすると、風通しの良い肌触りのさらりとした着物になる。通気性の良さや肌触りはもちろんであるが、色や柄も寒色や白に芒や秋草、流水などを使い見た目にも涼しく装うことが夏の着物の醍醐味である。

黒留:全体と模様の一部

帯も着物に劣らず、多種多様であるがもっとも一般的なものが名古屋帯と袋帯である。名古屋帯は大正時代に名古屋の女学校の先生が考案したと言われる。お太鼓になる部分が普通幅で、残りの部分を半幅に仕立ててある。一方袋帯は、重くて扱いにくく、高価な丸帯に変わるものとして昭和初期に作られた。表裏側になるよう袋状に織られているためこの名前があるが、現在では表裏を別々に追って縫い合わせた縫い袋帯が多い。また帯には柄付けによって全体に柄がある全通柄、全体の六割に柄付けして残りは無地の六通柄、締めた時に体の正面と太鼓の部分のみに柄をおいたお太鼓柄とがある。着物と同様、帯にも夏に締める夏帯があり絽や紗で透けるように織り上げたものや、縞柄の博多献上、絽に友禅染や型染めを施した染め帯、または麻を用いた帯などがある。

夏帯の文様

着物の着付け

一般的には、着物の下に長襦袢を着る。その役割は着物姿を美しく、また着くずれしないようにすることである。正式には長襦袢も正絹だが、実用的な化繊のものが増えてきている。長襦袢には半襟がかかっており、着物の下からわずかにのぞくように着付けるので着物に合わせた色や刺繍の入った半襟を付けることが多い。ただし、礼装は白である。長襦袢の下には下着として、半襦袢と裾よけをつける。半襦袢はその名の通り長襦袢の上半身を切ったような形だが、襟はない。裾よけは、やはり長襦袢の裾だけのようなもので半襦袢、裾よけとも汗とりや上に着ている生地を保護する役目をしている。その他伊達締めや腰紐、帯板、帯枕等が着付けに使用される器具である。必要に応じて補正するが方法は人それぞれで、ガーゼやさらし手ぬぐい、脱脂綿などを使う。補正の目的は、着物は全て直線に縫ってあるので、体をそれに合わせていわば筒型に近づけるのである。着物を止める役割をしているのが帯であるが、その結び方は様々で一番基本的な太鼓結び、二重太鼓から、ふくら雀、文庫結びなど着物やTPOに合わせた帯結びを選ぶ。着付けの仕上げは帯締めと帯揚げである。帯揚げは帯結びの形を支えるものであるが、綸子や縮緬、夏は絽など生地の選択、さらに着物や帯に合わせて絞りやぼかしなど、色や柄を組み合わせる。帯締めも帯全体を止める役割を担うが、丸組や平組など組紐の美しい、それだけで工芸品と言えるものから民芸品的なものまで、これも千差万別である。

袋帯(全通)

従来は、着物、帯の格や柄合わせ、TPOなど細かいきまりがあり、現代人を着物から遠ざける一因ともなっていたが、今ではあまり決まり事にこだわらず個性を表に出し、いろいろな着こなしをする風潮が強くなっている。冠婚葬祭など正式な場以外では、洋服と同様な感覚で着物のおしゃれを楽しみたいものである。

 



IROHAの芸術会員:

山口さち子

日本では、茶道を加えた3つの伝統芸能を学んだ。
イタリアに移住後は生け花と着付けという、最も重要で華やかな芸道を通じ、日本文化紹介に情熱をもって取り組んでいる。

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